〜「タイムループ」と「考えること」〜
コロナ渦、二度目の夏である。様々な季節の行事、イヴェントが中止となり、我々の生活は「自粛」ムードが当たり前になった。さすがに昨年の第一回目緊急事態宣言の時のようなレベルではないが、嵐が過ぎ去るのをじっと待っているかのように、毎日が淡々と過ぎてきた。
あれ?今日は何曜日?もう何月に入ったの?なんだか今日は昨日と同じで、明日もきっと変わり映えしなくて、その次の日も・・・。
そういえば、こんな風に同じ日々が繰り返される映画あるよなぁ・・「タイムループ映画」だ!タイムループとは、「同じ一日(時間軸)が何度も繰り返し起こる現象」を言う。これを題材にしたカルチャー作品は映画だけじゃなく、小説やテレビドラマ、アニメや漫画、古今東西、結構多い。実はこの手の作品、私はあまり観て(読んで)ないんだよなぁ・・・。今回は、「観ていないなりに」これぞという二本のタイムループ映画を俎上に載せたいと思う。
タイムループ映画のバイブル的存在というと、この作品である。
『恋はデジャ・ブ』1993年:ハロルド・ライミス監督作品
主人公の男は自己中で横柄なボンクラ野郎で、田舎への出張仕事が嫌でたまらない。その態度のひどさが祟ってか、出張仕事の一日が何度も繰り返される「タイムループ」に嵌まってしまうことになる。最初は戸惑いながらも、徐々に自分の行動に変化を付けてみたり、あれこれ放埒な振る舞いばかりしている。もうこんな事やってられるか!と自殺してみたりするのだが、目が覚めるとまた「今日」が始まる。そんな感じで「今日」が習慣化していく中で、彼が違う視点を持ち、立ち止まって考えることを始めると、世界が変わってくる・・・・。
この映画の公開当時は、私は全く興味なく観逃していた。それから約20年経った2014年のNHK/Eテレの番組『哲子の部屋』(真面目な哲学エンタメ番組で、題名はもちろんテレビ朝日「徹子の部屋」のパロディ)で、この映画が教材として取り上げられた。その番組での解説を視聴して、何?そんな哲学的な映画なのか?気になって気になって、この映画を観た。するとこれがまた「深い」のである。
表層上はシンプルなラブコメなのだが、ボンクラ男の心の葛藤と行動の変容ぶりを観ていると、我々日々の暮らしをどう捉えるべきか、自動リセットする一日を生き続けることにはどんな
意味があるのか、いつかは死ぬからこそ今日一日が大切なのではないか、結局人間の幸せって何なんだ?っていうところまで考えてしまうのである。
『哲子の部屋』におけるの哲学的考察を私なりに説明すると・・・
人間は毎日毎日「習慣」を生きている。いつもの日々をいつものように過ごす生活は安心安全であり、何も考えずに「流れ=パターン」で生きていけるのが安泰なのである。実は、この生活はタイムループ状態に等しいのだ。「毎日が同じなんて!」というネガティヴな発想じゃなく、「おかげさまで何事もなく過ごしております」と言うポジティブなものなのだ。ところがあるとき、不測の事態が起こる、イレギュラーな事件が起こる。人間困ると考えるんだよね。外部から侵入してきた事象によって、否が応でも考えさせられちゃうよね。どうする?考えて、整理して、理解して、身につけなきゃ。コレが「哲学」なんだそうだ。なるほどね。
〜人は”考えない”ように生きる。しかし、時に”考えさせる”何かと出会う。〜*1)
映画の話に戻ろう。「考えさせる何か」に出会った主人公は、他人のために生きる、行動するようになる。すると、田舎の住民からは賛辞称賛雨あられ、気になる彼女との恋も成就して、めでたくタイムループから脱出成功と相成るのであった。
ただ、全体を見通すと、神様が「このバカに大切なことを気付かせるには、同じ一日を何万回も生きさせねーとダメだべ。」と思って、主人公をタイムループ世界にぶち込んだら、改心がみられたので元の世界に戻してやった、という構造が透けてみえる。私はその構造の甘さが気になってしまうのだが・・。
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『恋はデジャ・ブ』の後、様々なジャンルでタイムループ映画が作られていったが、先に書いたように私はほとんど観ていない。しかし!今年公開されたタイムループ映画は「サタデー・ナイト・ライブ(アメリカ最大のお笑いテレビ番組)」のキャストが作った「おバカ・ラブコメ映画」なのだが、これがとびっきり素晴らしかった!
『パーム・スプリングス』2020年:マックス・バーバコウ監督作品
主人公の男は、付き合ってる女がブライズメイドをすることになったので、その結婚式にたまたま出席したら、たまたま地殻変動だか時空のひずみだかに出くわして、「結婚式の日」のループに嵌まってしまう。この映画のキモは、ループに嵌まっている人間=犠牲者が主人公だけでなく他に複数いるという点である。しかも彼らをループに引き込んでしまったのは、(意図しないことではあったが)主人公なのである。それが主人公の負い目となり、コメディ・ドラマとしてのアクセル要素となっている。
犠牲者の一人は隣町に住む中年ハゲオヤジ。主人公への恨み骨髄晴らさんと、暗殺者となって夜な夜な主人公を襲ってくるが、無駄無駄無駄なのである。最終的に中年ハゲオヤジは「愛する妻子がいて、幸せで平和が一日が続くのだからこんな素晴らしいことはないよな。」みたいな境地に達してしまう。
もう一人の犠牲者は花嫁の姉で(彼女がこの映画のヒロイン!)、人生うまくいかないモード全開のダメ女である。しかしループ世界に入った彼女は、一貫して前に進むことにトライし続ける。量子物理学、宇宙工学、地質学・・・可能な限りの知識をかき集め、タイムループ脱出法を科学的に突き詰める。今までがいかにダメダメ人生であったとしても明日が欲しい、ダメだったからこそ明日やり直したい、その信念で行動する。
一方、主人公はこれまで「どうでもいい」モードで、何万回も「結婚式の日」をやりたい放題で過ごしてきたのだが、ループ世界にやってきたヒロインのことがとってもとっても気になり出す。
私が大好きなシーンがある。
二人がキャンプ・デートして、広大な砂漠の景色をながめていると、遠くで恐竜が砂漠を横切っていく。(映画では)本物の恐竜のようにみえる。本当は「恐竜がみえるような空気」を二人で共有したということであり、おそらくは二人が愛を発見した瞬間なのだろう。そんな体験をしたら「こんな二人の関係が永遠に続けば良いのに」と思う一方で、「この人とこれからの人生を共に生きたい、共に年を重ねていきたい、アンタ100までわしゃ99まで・・・」とも感じるようになるでしょ?
そこで主人公は考え出す。柄にもなく考えに考えて、俄然揺らぎだす。
中年ハゲオヤジのように、現状のまま素晴らしい毎日を彼女と永遠に満喫するか?リスクを取ってこのループから脱し、彼女と生きる人生、本当の人生を取り戻すか? それは愛の葛藤でもあると同時に、実は政治的葛藤でもあると、私は思うのだ。自分の認識の仕方(視点)を現状に則して適応させるか?自ら行動して現状を変革しようとするか?保守か?革新か?・・・な〜〜んてゴチャゴチャ考えてるうちに、映画はクライマックスへ。ダメダメだった二人は自分の意思を定めて、一歩踏み出していくのである。
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これらの映画のようにタイムループはしないものの、このコロナ禍で、変化に乏しい、淡々とした毎日を生きることの「閉塞感」を感じている人は多いのではないだろうか。私もこの一年半はそんな気分で過ごしてきた。しかし現実には、時は人を待たずに進み続けているのだから、なんとかしなくちゃなぁと思う。唐突だが、昨年(2020年)、私は還暦をむかえた。60年という一つのループを経て、今年は新たなループの一年目である。新しいループでは、前のループでやってきた事をただ繰り返すだけでなく、新しい視点を持って、新しい事柄にも少しは取り組んでみたいと思っている。じゃあ、何をどうする? そのヒントは、タイムループ映画の中にあるんじゃないかなぁ?
タイムループ映画は、自分の習慣という静かな水面に投じられた小石のようなもの。どんな波紋が生じる? それをどう受け止める? そして、どう行動する?
はい、これからゆっくり、考えます。
*1):哲子の部屋〈Ⅰ〉哲学って、考えるって何?
監修:國分功一郎・NHK「哲子の部屋」制作班
河出書房新社 〜より引用
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